日立のさくらの歴史

日立の桜の歴史(沿革) (調査報告書 日立のさくらより) 詳細は 

 日立の桜の歴史をたどるとき、日立鉱山の創業・煙害の発生、そして会社の対策との関わりを抜きにしては語れません。順にその歩みを紹介します。(日立の桜の年表 

煙害の発生とその対策(明治期)

本山精錬所 明治38年、久原房之助によって買収され、日立鉱山として近代化が図られていく過程 で、銅の精錬の際に排出される煙の中に含まれる「亜硫酸ガス」によって、近隣の農作物や山々の木々が枯れるという公害問題が発生し、 地域住人や日立鉱山にとって大変な試練の時期を迎えました。荒廃した環境を何とか回復させようと、当時の煙害対策の中心となった日立鉱山庶務課長の角弥太郎は、伊豆大島の噴煙地帯に「大島桜」が自生することに着目して苗木を調達し、明治41年に 試験的な意味も込めて社宅周辺に大島桜を植栽しました。また、明治42年には煙に強い植物の開発や耐煙性樹種の苗木を育成するため農事試験場が設置されました。(写真は明治39年の本山製錬所)

大煙突の建設と植林(大正期)

 当時は煙はできるだけ薄くし、低い煙突から排出して、煙を狭い範囲にとどめることが、煙害を軽減する最良の方策であると信じられていました。しかし、久原房之助は「煙を高煙突方式により高空に拡散し煙害を軽減する」という方策を考案し、大正3年12月に高さ155.7m当時世界一の大煙突を完成させました。その後、煙害は激減し、問題の解決をみることになります。
 又農事試験場では、苦心の末、山林の植林に必要な大島桜の発芽・苗木の育成に成功し、大正4年から昭和7年までの18年間にわたり推定260万本の大島桜を中心とする約500万本もの植林が行われました。

大島桜から染井吉野へ

 大島桜がうまく育つようになると、この苗木に染井吉野を接ぎ木して、桜の苗木を多量に作りだしました。角はこの桜の美しさに着目して、大正6年の頃社宅、学校、鉱山電車線路沿いなどに約2000本を植えさせました。これが当市のの春を彩る染井吉野の群落のルーツです。その後も農場では、大島桜をはじめとする耐煙樹種の苗木と、この染井吉野の苗木が生産され、市内各所に植えられるようになりました。

かみね公園と平和通り

 平和通りは、戦後の戦災都市復興計画により昭和26年に全線開通し、「国土緑化運動」の一環として植えられた桜が契機となり、 地元の人たちの協力によって75本の染井吉野が植栽されました。その後も植栽され、現在は123本の桜並木になって、毎年4月の開花時期 には「日立さくらまつり」が開催されるなど多くの人たちで賑わっています。また、さくらのもう一つの名所であるかみね公園は、昭和28年に「神峰公園整備促進会」が結成され、市民の献木運動と奉仕作業 により108本の桜が植栽されました。その後も市民記念植樹運動(誕生記念、入学記念、結婚記念等)により植栽が進められました。