日立のさくらの歴史

日立のさくらの歴史

第1節 煙害の発生とその対策(明治期)
(1)日立鉱山の成立

赤沢銅山

久原房之助の登場

(2)煙害の発生

本山精錬所と煙害

大雄院精錬所

買鉱の成功

農作物・山林の被害

地元の対応

(3)会社の対策

角弥太郎

農事試験場

初期の大島桜

砂防植栽

第2節 大煙突の建設と植林(大正期)
(1)大煙突建設までの道のり

八角煙突から阿呆煙突まで

制限溶鉱

久原の着想と反対論

世界最高の大煙突

(2)継続する植林事業

大煙突の成功

煙害に強い樹木の探求

苗木育成の苦心

大植林の展開

苗木の大規模無償配布

大島桜から染井吉野へ

第3節 住宅周辺への植樹(昭和戦前・戦時期)
(1)諏訪台の桜塚

住宅地の桜

角と桜塚

(2)本山社宅周辺の桜

御大典記念植樹

(3)熊野神社・社宅などの桜

熊野神社

社宅などの桜

第4節 かみね公園と平和通り(昭和戦後期)
(1)かみね公園の整備

かみね公園の誕生

市民による整備と公園の開園

公園の整備拡充と発展

(2)平和通りの桜植樹

桜並木の誕生まで

桜の生長と桜並木の拡大

 

日立鉱山の成立

赤沢銅山
 日立鉱山の成立は、山口県出身の実業家久原房之肋の登場を待たなければならない。それまでの赤沢銅山は、佐竹時代にはじまる300余年の歴史はあるものの、地方の群小鉱山の1つにすぎなかった。その間、江戸時代には寛永のころに甲州から永田茂右衛門父子、幕末期には多賀郡南中郷村の大塚源五衛門らによる開発があった。明治維新後も、二、三の着手事例はあったが、積極的な取組みがみられるのは、明治34年(1901)暮れ、横浜のボイエス商会の出資による赤沢鉱業合資会社の経営となってからである。しかし、その現地代表のシー・オールセンが采配をふるった期問は意外に短く、明治37年(1904)夏には大橋真六が赤沢の総代人となっている。(目次へ戻る
久原房之助の登場
 そのころ、赤沢鉱山の所有は、横浜で薬品業を営む松村清二に移っていた。その松村は、現地への支出がかなりの金額になっていたこと、鉱毒予防施設等の問題で地元と対立していたことなどから、この鉱山事業からの撤退を考えるようになった。ここで登場したのが久原房之助である。久原は、銀山として経営危機を迎えていた小坂鉱山(秋田県)を銅山として再建し、所有者である藤田組の経営を安定させた経歴があった。久原は、その十数年のキャリアをもとに最新の経営技術を身に付けた少壮実業家として、明治38年(1905)末に赤沢銅山を買収し、その名を地元の日立村にちなんで日立鉱山と改め、この地に独立の一歩を踏み出したのである。(目次へ戻る

煙害の発生

本山精錬所と煙害
 煙害に関する初の交渉は、明治40年(1907)5月、人四間、下、笹目集落の夏そばについて行われている。このころは製錬施設は本山にあった。山下吹きという旧式な技術ではあったが、久原の手によりとりあえず増強された設備は、長8尺帽3尺の長方形溶鉱炉三基を中心とするもので、三月には中里発電所の完成により電化が進み、生産量も増加した時期にあたる。この秋には農作物ばかりでなく赤松、栗などの山林の樹本にも被害が発生し、人四間集落と日立鉱山の問において補償交渉が行われた。(目次へ戻る
大雄院精錬所
 日立鉱山においては、最新の技術により探鉱をすすめ、明治40年末までの約2年間に、その後の鉱山部門隆盛の核となる神峰、中盛、笹目などの優勢な鉱床を次々と発見した。これにより埋蔵鉱量について確信を得た久原は、続いて他鉱山の鉱石を買入れ製錬することを視野に入れた大規模な銅製錬所を杉室の天童山大雄院の寺域に計画した。そして明治41年(1908)11月から翌年3月にかけて四座、引き続いて大正元年(1912)11月までに合計10座の溶鉱炉を完成させた。一つひとつの設備も、例えば錬鉱用の炉の長辺が40尺と、本山製錬所の炉の5倍であることなど大型であり、大量生産をめざし、最新の技術で装備された製錬所として誕生したのである。(目次へ戻る
買鉱の成功
 日立鉱山の鉱量の増加とともに、他の鉱山からの買鉱量も順調に増加した。それまでの中小鉱山は、たとえ小規模であっても、山元で製錬し粗銅として出荷していた。しかし、その採取率(鉱石中から製品として採れる金属分の比率)は驚くほど低いものであった。このため、買鉱の条件を示された各鉱山は、鉱石を売却した方が収益において有利であることをさとり、日立鉱山は、比較的短時日のうちに多数の買鉱契約に成功した。(目次へ戻る
農作物・山林の被害
 このような製錬原料の順調な増加にともなって、排出される鉱煙の量も必然的に増加した。これとともに煙害も当事者の予想を超えて激化し、被害区域を拡犬した。農作物については、煙に弱い葉たばこ、そばをはじめ麦、疏菜、果樹、桑などに被害が生じた。夏そばなどには、激害のために収穫できないものもみられるようになった。山林樹木については、栗、赤松にはじまり、けやきなどの雑木にも被害が生じ、多賀山間部をはじめ久慈郡方面においても頻繁な襲煙のために高齢樹が枯れ、幼齢樹は十分成長できない現象もみられるようになった。しかも、被害地域は明治42年(1909)の日立、豊浦、高齢、国分、久慈などの2町5ヶ村から、45年(1912)には3町18ヶ村に広がった。(目次へ戻る
地元の対応
 当初、個々の煙害についての補償交渉は、会社側の誠意ある対応により、比較的順調に解決していったが、煙害の激化、広域化とともに大きな社会問題となっていった。煙害が激化した明治44年(1911)1月には、多賀郡松原町(現・高萩市)の農民ら119名による日立銅山煙毒救済の請願が貴族院、衆議院、農商務省に提出された。同年11月には県議会において県知事に対し煙害の試験調査、救済についての意見書を可決するなどの動きがあった。同年9月には、国分村から農民600余人が日立鉱山に押し寄せ、麦の損害補償金の引上げを要求するという事件が起きるなど、次第に被害者側の運動も激しくなった。人四間などの製錬所に近い集落では被害は深刻をきわめ、「生業を続けていくためには、他地に移住するしかないという、悲観的な立場に追い込まれて、住民の動揺は深刻きわまりない」(「煙害問題昔話」)状況となり、那須野原への移転が真剣に討議されたという。(目次へ戻る

会社の対策

角弥太郎
 日立鉱山側の煙害対策の中心となったのは、庶務課長(後の四代所長)の角弥太郎である。角は、すでに小坂鉱山において煙害を経験しており、日立に着任するにあたっても、自分の使命は煙害問題の解決にあると覚悟して来たという。角は、「煙害に対する損害は、鉱業主が進んで賠償の責を果たさなければならぬ」とする基本方針をたで、久原にも同意を得て地元との交渉にのぞみ、地元の人々の安心感を得ることに意を用い、しだいに被害者側との信頼関係と交渉のルールを確立していった。また、角は、加害者側の立場にはあったが、地元との共存共栄を理想として懸命にその対策を模索した。煙害の激化により一時は希望を失いかけたが、太煙突の成功により立ち直って、その後の施策をすすめ、やがて地元の人々にも慕われる存在となった。(目次へ戻る
農事試験場
 角は、会社において煙害などの地元との問題を解決する組織として地所係を設置するとともに、その試験研究機関として明治42年(1909)に、日立村大字宮田字福内に面積5反2畝を借地して農事試験場(以下農場と坪ぶ)を設置した。この農場は、煙と植物の間の因果関係をさぐり適正な補償に役立てるとともに、優秀な耐煙性植物の開発、耐煙性樹種の苗本の育成などに大きな役割を果たした。農場は増減を経て、東海村におかれた東海農場が、昭和50年代まで存続した。このころ、会社は煙害と気象の関係に着目して気象観測も開始した。(目次へ戻る
初期の大島桜
 明治41年(1908)には、早くも社宅周辺に犬島桜が試験植栽された。角は、伊豆犬島の噴煙地帯に犬島桜が自生することに着目して、煙害により荒廃した社宅環境をいくぶんでも回復するためにこの措置をとったという。
  大雄院に製錬所が竣工した翌年の明治42年(1909)には、煙害激化の兆しがあり、煙突周辺の草本が枯損し土砂が流失するため杉皮で覆うなどの措置をとったことが報告されている。周辺社会にもその影響は及び、同年6月1日のいはらき新聞には「日立鉱山煙毒問題一段落」の見出しで、日立鉱山と地元との間に交渉が行われ、山林に関しては、民有地100町歩の買収や賠償金の支払、耐煙本草本の無償配布、農事試験場の設置、大雄院製錬所の煙突を300尺とする協定を結んだことが報道されている。 ここでいう耐煙木とは何か、配布された苗木とは何かということを次に述べる。やや時期はずれるが、人四間の関右馬允の残しか「煙害調査記録」の明治45年(1912)3月の日付の記事に、犬島桜の配布を受けた記録が出てくる。入四問集落で3000本、その内、宿だけで大島桜1000本の配布を受けたというものである。また大正4年(1915)の鉱山からの配布の通知書が綴じ込まれていて、そこからは大島桜とアカシヤ(ニセアカシア・ハリエンジュの俗称。以下同じ)が配布の樹種であることがわかる。沢平や日立、高鈴両村方面を含めると相当数のこれらの苗本の無償配布が、このころから行われていたものと考えられる。 初期の犬島桜の苗木は、角や、その他の担当者の回顧によると、伊豆大島方面から調達されたものである。これまで一般に煙害に強いと考えられてきた樹種を、試験的な意味も込めて植栽し、あるいは配布したものである。(目次へ戻る
砂防植栽
 明治43年(1910)2月に、東京大林区署から日立鉱山に対し、煙害緑地に砂防植栽をなせという通牒が出された。日立鉱山はこれに応じて土砂流出防止のため、煙突周辺4町6反歩にそだ束を菱形に組み杭を打ち込んだ網状連柴を構築し、また16町3反歩にはハゲシバリを植えた。本山旧製錬場付近の煙害緑地37町歩には、大島桜2万本をはじめアカシヤ、山榛(ヤマハンノキ)などおよそ10万本を植え付け、さらに大島桜とアカシヤ約五万本を追加植林した。(目次へ戻る

大煙突建設までの道のり

八角煙突から阿呆煙突まで
 製錬所の煙は、はじめ八角形煉瓦造の24メートルの高さの煙突から排出された。その後、煙害に悩み、明治44年(1911)に長さ約1600メートルもうねうねと神峰山の山腹を這い上る奇妙な百足(むかで)煙道を築いた。これは途中の10数個所に排煙口を設け分散排煙するもので、日立鉱山の技術陣の苦心の産物であったが失敗に帰した。
 大正2年(1913)には、政府の命令により煙を空気で稀釈してから排出する煙突を造ることになり、高さ33メートル、直径18メートルという、これも奇妙な寸詰まりの煙突を完成させた。内部に六基の卵型の煙突を抱えこんだこの煙突は、政府の指示する基準は達成したにもかかわらず、かえって煙害が激化したことから阿呆煙突と呼ばれるようになった。(目次へ戻る
制限溶鉱
 煙害の激化に悩む角は、このころれまで技術者の聖域であった溶鉱炉の操業の方法にまで踏み込み、気象、作物の状況、煙の方向などを判断して炉の操業率を上下させ、排煙の量をコントロールすることにより煙害を低下させる方法を提案し、万難を排して実施に移した。そして、この制限溶鉱は、世の人に知られることなく、神峰山測候所を中心とする気象観測網の成果を反映させながら戦後まで続けられた。
 しかし、それでもなお当時は、増加する銅需要をまかなうため右上がりのカーブを描く溶錬鉱量とともに激化する煙害を防止するには至らなかった。(目次へ戻る
久原の着想と反対論
 当時は、学者・政府・業界のすべてが、煙はできるだけ薄くし、低い煙突から排出して、煙を狭い範囲にとどめることが、煙害を軽減する最良の方策であると信じていた。したがって、このとき久原が唱えた、煙を高煙突方式により高空に拡散するという提案は、とうてい受け入れられるものではなかった。
 しかし、久原は、火山が高く煙を噴いてもさしたる煙害をもたらさないこと、そして小坂鉱山での体験から、煙は悪天候の場合を除いて概して着地することなく遠方に拡散すると確信していたことなどから、たびたびの部下の反対論を退け、政府も説得して、あえて「日本の鉱業界の一試験台」として建設に踏み切った。(目次へ戻る
世界最高の大煙突
 当初、久原は、この煙突の高さを350尺(約106メートル)で考えていたが、事業の責任者であった専務・竹内維彦 (後の日本鉱業初代社長)が、高層気象観測や風胴実験等の研究の成果も踏まえて500尺(151.5メートル)に高めて計画したといわれる。さらにその後、当時の世界一であったアメリカ合衆国のグレートフォルス製錬所の煙突より5フィート高い511フィート(155.7メートル)に変更して建設された。
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継続する植林事業

大煙突の成功
 大正4年(1915)3月、大煙突が完成し、犬空に煙を吐きはじめると、製錬所周辺一帯からあたりを閉ざしていた煙が消えた。角は、これを目にして「手の舞ひ足の踏むところを知らぬ喜び」と、その感激を表現している。その後は、この犬煙突というハード面の効用と制限溶鉱というソフト面の対策があいまって煙害は激減した。かえって遠方にそれまでになかった被害が出たこともあったが、大煙突建設前の状況を振り返ると、比較にならぬほどの改善が実現したのである。(目次へ戻る
煙害に強い植木の探求
 農場においては、煙害に強い樹本の研究がねばり強く続けられた。たとえば大島桜と煙に弱いといわれた栗に、濃度の異なるガスを被煙させる比較試験を4年間に延234回繰り返している。その結論は、強いといわれた大島桜も、弱濃度の煙にはほどんど反応しないが強濃度の煙にあうと急激に大きな被害が現れ、弱いといわれた栗は、弱濃度の煙でもすぐに被害の兆候が現れるかわりに強濃度の煙でも被害の程度はあまり変わらないという、両者の特性が確かめられている。
 このような試験を他の樹種においても行うとともに、被害現地の林本のり患状況、枯損にいたるまでの強弱の関係などの調査を実施して、樹本間の強弱の判定を行った。そして、これらの積み重ねにより、当地誠における最良の耐煙樹種として大島桜が選定された。
 山林樹本の耐煙性の順位に関する日立鉱山の得た結論は次のとおりであった。

  最も強きもの   ヒサカキ、椿
  強きもの     ヤシャブシ、ミズキ、コナラ、アオキ、犬島桜
  中位のもの    黒松、シロカシ、杉、桧、花柏、クヌギ、ホホ
  弱きもの     赤松、カラマツ、アカガシ、梅、枇杷
  最も弱きもの   栗

             (鏑木・庵原共著「実験煙害鑑定法」)(目次へ戻る
苗木育成の苦心
 大島桜の苗木は、当初は伊豆犬島から取り寄せたが、山林の植林には大量の苗木が必要なので、農場で種子から苗木を育てようと努力した。しかし、種子の保存・発芽の条件がよくわからないまま再三にわたり失敗した。ところがあるとき、農場のゴミ捨場の下から捨てた種子がみごとに発芽しているところを発見し、ついに大島桜の苗の大量栽培に成功した。やはり煙に強く大量に栽培されたヤシャブシの苗木にも似たような苦心があった。このほかにアカシヤ、黒松などの苗の栽培も行われた。
 ちなみに大正3年度(1914)に栽培した大島桜の苗木の数量は、山行苗64万9000本、小苗54万9998本、合計119万8998本と報告されている。その年度の農場の苗の総数が143万2700本であったというから、この年度は全体の83パーセントを大島桜の苗木が占めていたことになる。(目次へ戻る
大植林の展開
 大正4年(1915)3月、大煙突の使用開始により煙害の状況が一変すると、角は、ただちに自然環境を回復させるための植林を開始させた。
 その春から、大煙突周辺から神峰山、本山方面へと大正8年(1919)春までに大島桜を中心とする植林を行い、その面積は360町歩に及んだ。大正9年(1920)からは、大白峰稜線から陰作沢方面の陰作国有林、金山方面の鹿子作国有林、大煙突東側の三作国有林などを対象として、大正13年(1924)までに杉、黒松、大島桜を植え付け、その面積は400余町歩に及んだ。なお、引き続いて手入れ、刈り払いを行い、昭和7年(1932)に一切を完了した。
 それに先立つ明治の終りから大正6、7年にかけて、煙害関係で周辺集落の地主の要請により買収した山林(おおむね伐採跡地であったという)約450町歩についても、大正4、5年ころから杉、ひのき、黒松、赤松などの植林を行い、昭和6年(1931)ころ一切を終了した。
 このおよそ18年間にわたる植林の面積は延1200町歩に達する。植えられた苗木の数は、概算で500万本以上である。また、この植林事業の中で、大島桜の植栽面積は、合計595町歩と報告されている。もし、仮に砂防植栽と同様に1町歩4300本の割で植えられたとすれば、その苗本の数は260万本に達することになる。
 この植林が行われたころ、草木の枯れた山々では、山火事がたびたび発生した。このため日立鉱山は、大煙突を中心として旧日立市を巡る山々の稜線伝いに、50間または30間の幅に樹木を刈り払った防火線を延々と作った。ただし、防火樹として有効な野茶(ヒサカキ)、ヤシャブシなどは残したという。
 今日、神峰公園から神峰、高鈴の両山を通り、南は風神山までのハイキングコースを歩くと、稜線洽いの方々において、このころ植えられて生き残ったどみられる大島桜やヤシャブシなどを観察することができる。(目次へ戻る
苗木の大規模無料配布
 日立鉱山自前の植林の展開と同時に、周辺地域の希望者に対する苗木の無償配布も大規模に行われた。大正4年度(1915)の日立村ほか17か町村に対する29万本をはじめ、昭和12年度(1937)までの23年間に、約500万本が無償供与された。この中には大島桜72万本が合まれていた。
 関右馬允著「煙害問題昔話」によれば、入四間の場合はこの無償配布を利用して杉、くぬぎなどの苗木による造林を積極的にすすめ、大正11年(1922)から11年間に約10万本の配布を受け、宿、笹目両集落に杉を主体とする約40町歩の美林を造成したという。(目次へ戻る
大島桜から染井吉野へ
 大島桜の苗木がうまく育つようになると、農場の担当者はこの苗木に染井吉野の苗を接ぎ木して、桜の苗木を多量に作りだした。角は、この花の美しさに着目して、大正6年(1917)のころに社宅地域、学校、道路、鉱山電車線路沿いなどに約2000本を植えさせた。これが、当市の春を彩る染井吉野の群落のルーツである。
 その後、農場からは、引き続いて、大島桜をはじめとする耐煙樹種の苗木と、この染井吉野の苗木が生産され、市内各所に植えられるようになった。そして今日では、春の日立の街を歩くと、あちらでもこちらでもその美しさを目にすることができるようになったのである。
 このように日立市の染井吉野の場合には、単に春の美しい花というだけでなく、その裏に、地域の煙害克服の歴史と、環境回復の悲願のもとに懸命の努力を重ねた人々の歴史が秘められていることを忘れるわけにはいかない。染井吉野は、それらの歴史の象徴としての役割も担って、日立市の春を爛漫と彩っているのである。(目次へ戻る

諏訪台の桜塚

住宅地の桜
 いま日立市役所の後方、高台にある日鉱金属諏訪台社宅の一角に、高さ約1メートルほどの石碑があり、桜塚の文字が刻まれている。自然石でその文字の下方に「大正六年春角弥太郎氏諏訪台に桜樹を植う 昭和九年四月十目」とある。日立製作所日立工場の当時工場長であった高尾直三郎が建てた「桜塚」である。
 大正4年のころ、鉱山の煙害対策用として、大島桜を現在の東海村石神農場で育苗していた。その大島桜の苗木が自前でできるようになったころ、当時鉱山の煙害対策植林の責任者であった山村次一の記憶によれば、『その農場に近藤権之丞さんという接ぎ木の親分みたいな人がいて大島桜の苗を台木にして染井吉野桜を接ぎ木し、多くの染井吉野の苗木をつくっていた。』 (日鉱ニュース第241号)こうしてつくられた染井吉野の苗木約1200本が鉱山の社宅である諏訪台、杉本、大雄院、掛橋の地域に植えられた。
 これが日立市の住宅地に植えられた染井吉野のルーツである。もちろん少しの本数を個人が住宅周辺に植えたものもあったかも知れないが、計画的に大量の本数を植えたのはこれが最初であろう。
 諏訪台の桜はこうして鉱山の人たちによって植えられ、成長し、日立の桜名所の最初のものとなった。
 この日立の桜花について、大正12年4月2日の新聞「いはらき」に
「4月の陽春に入って滅切り暖気に向かい、梅の未だ散らざる内に日立鉱山は高台の彼岸桜は昨今綻びかけた 殊に諏訪台の桜は4月10日頃花が見られるであろう」と紹介されている。それ以前は水戸、土浦などの桜についての記事はあっても、日立の桜が記事になることはなかった。短い文章ではあったが、その後は、ほぼ毎年日立の桜が紙面に登場していることからも記念すべきものといえる。(目次へ戻る
角と桜塚
 角弥太郎は、この染井吉野を鉱山住宅地域に広く植えた当時の日立鉱山の所長であった。また当時諏訪台の社宅に住んでいた日立製作所日立工場の工場長高尾直三郎が、この角弥太郎の桜に対する業績を忘れまいと、自費で、しかも自筆による碑面の記念碑を建立した。
 この経過については、日立製錬所ニュース(昭和51年11月1日)の記事「桜塚を話る」によって明らかである。
 昭和9年4月12日のいはらき新聞には、「床し桜塚・諏訪台へ建つ」と、その除幕式の様子が写真入りで紹介されている。
 「大正6年の春日立鉱山の全盛当時の所長角弥太郎さんが、さる大正6年の春のころ 諏訪台の一角へ移植した百本に余る桜苗木はいまや成長し界隈で桜の名所とまで謂れている処へ、今度日立製作所の工場長 高尾直三郎さんの思いたちからさくらの名所として永久に記念せんと三角公園内へ自ら揮毫して桜塚の一碑を建てられた。この除幕式を10日午後4時半から諏談台童話会主催となり数多の少年少女達の集いの下に挙行された。」
 このようにして植樹された諏訪台の桜も、昭和20年7月の空襲によって罹災し、またその後枯死が増えるなどの被害が太きくなった。
 これに対し、日立鉱山は創業50周年記念事業の一環として、付近一帯に150本の桜を補植し、現在の姿を保っている。(目次へ戻る

本山社宅周辺の桜

熊野神社・社宅などの桜

熊野神社
 山手工場の隣接地にある熊野神社の桜は見事である。神域の染井吉野の大本が、花一杯の枝を地面近くまで垂らして咲く様は正に燎乱である。この桜はいつごろ植えられたものであろうか。日立鉱山工作課では、明治43年、日立村大字宮田字芝内の地に製作所を建設した。
 その後、事業が発展して大正7年には工場を拡大した。当時、日立製作所は第一次世界大戦からの拡張期を迎えており、この事業の順調な発展は、すぐ地続きに工場建設の前からあった熊野神社のご加護であると考え、工場の拡大を機に日立製作所の守護神として崇敬することにした。
 それまでこの神社は、数本の杉の大本に囲まれた、椎の大本の根本にある小さな祠であったという。
 日立製作所では、大正7年に守護神にすると同時に神社の社殿を建立、寄進した。そのとき大がかりな神域整備をしており、確かな記録はないが、このころ神域内に桜を植樹したものと考えられる。
 これは昭和14年同神社の神域拡張整備を行ったときの写真に、すでに幹直径約18センチメートル(6寸)くらいに成長した桜が写っていることからも知ることができる。
 その後、昭和3年の御大典記念、昭和8年には北白川宮永久王殿下の日立工場来場記念などによる神域整備、また、昭和15年には社殿の大改築を行って社格が村社に昇格した。その際、神域の再整備を行い、現在の姿になった。こうした経過をたどり、その都度、外苑の桜も植樹されてきたものと思われる。(目次へ戻る
社宅などの桜
 また、ほかの住宅地などの桜の植樹をみると、日立製作所は工場拡大に合わせて、昭和3年には日立工業専修学校の校舎が現在地に建設されるとともに周辺には桜が植えられた。昭和10年には、現在の日立工業高校の地に日立工業青年学校が建設され、周辺および道路に桜が植樹された。
 このほか、日立製作所は福利政策として、いま桐本田市営アパートの建っている地に、大正10年第一グランドを建設、大正14年には現駒王中学校の地に第ニグランド、諏訪台クラブにプール、昭和11年に会瀬グランド、そして昭和15年には会瀬野球場などを建設しており、周辺に桜を植えてきた。
 社宅関係としては、会瀬グランドに隣接した修井寮(平成八年撤去)は、昭和15年に建設されたものであり、そのとき植樹された桜は、寮が撤去されなくなった今でも、大樹となって毎年見事な花を咲かせている。社宅は、昭和9年から16年ころにかけて、会瀬、山根、上の内、石内などへ建設がすすめられてきた。また、日立総合病院は昭和13年、多賀病院は17年の開院であり、それら施設の周辺にも建設など機会あるごとに桜が植えられてきた。桜が市内一円に広げられてきた経過である。(目次へ戻る

かみね公園の整備

かみね公園の誕生
 昭和8年10月、日立町への都市計画法適用により都市計画事業の1つとして初めて「神峰公園」が計画立案された。
 しかし、すぐには公園の実現に至らなかった。当時の日立町、そして合併後の日立市には公園計画を実施するだけの余裕がなかったのである。当時としてはまだ優先度の低かった公園整備よりも、増加し続ける人口対策である学校教育面や民生面の緊急対応に忙殺されていた。その後、間もなく戦時体制に組み込まれ、計画のまま戦後に持ち越される。
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市民による整備と公園の開園
 戦争が終結して3年目、市民生活も少しずつ落ち着きを見せ始めてきた昭和23年に「憩いの場を求める市民の強い要望」によって市民公園としての施設整備が着手された。計画立案から15年目のことである。そして昭和24年4月22日には、公園計画が再び都市計画決定(変更)されて、本格的に整備が動き出すかにみえた。しかし、折からの財政難により、公園整備が失業対策事業とされたため、工事はほとんど停滞してしまった。
 遅々として進まない公園整備に対して、昭和28年には、地元の宮田・滑川地区の有志が集まり「神峰公園整備促進会」(根本甲子男会長)が結成された。この時点では、既に平和通りは開通しており、街路事業や土地区画整理事業、駅舎の新設事業(現在の日立駅中央口)などを柱とする「戦災都市復興計画」も順調に進んでおり、旧日立市における都市基盤整備が目覚ましく進んだ時代であった。
 この促進会は「市の公園建設に協力し整備を促進する」ことを目的とし、活動としては1戸1本の献本運動や、桜苗木の植栽・施肥、園内の草刈りなどの労力奉仕作業を積極的に展開した。一方でこの公園整備の住民運動は、昭和29年ころから機運の盛り上がりを見せてきた「日立風流物」の復元運動(戦災でそのほとんどを焼失)と軌を一にし、同時並行的に展開されて公園の整備が著しく進んだ。
 かみね公園の開園は、昭和28年6月(1953)であるが、その後、昭和31年に公布された都市公園法の全面適用を受けて、32年以降、年次計画に基づく整備に着手したことなどによって、公園としての体裁が本格的に整えられていった。昭和32年6月には公園の一画に 「かみね動物園」が開園している。(目次へ戻る
公園の整備拡張と発展
 昭和20年ころに、ほぼ完成に近づいたかみね公園は、昭和30・31年の町村合併により拡大した日立市の「顔」となる公園へと大きく成長していく。
 昭和32年には動物園に相前後して遊園地が開園している。遊園地は開園当初には、飛行塔のみであったが、豆汽車、回転ボート、観覧車、オクトパスなどの遊戯施設を順次整備して現在に至っている。動物園も、年を追って着実に整備拡充が進められ、昭和45年の整備完了時点では北関東三県で最大の動物園となり、県内はもとより、福島・栃木などの県外からも数多くの家族連れや遠足の子どもたちが訪れて、にぎわいをみせることとなったのである。園内整備も進められて、園路や野外ステージの設置に並行して、桜などの樹木植栽が計画的に行われてきた。
 また、自動車社会の進展に伴って、駐車場施設の拡充も行われ、今ではいずれの駐車場も桜に囲まれて、美しい桜の名所となっている。(目次へ戻る

平和通りの桜植樹

桜並木の誕生まで
 平和通りは、正式の名称を「県道目立停車場線」といい、昭和21年(1946)6月に「都市計画道路日立停車場線」として、延長1050メートル、幅員36メートルで都市計画決定された日立市の骨格を形成する道路の一つである。
 日立市は当時、昭和20年6月10日の空襲、同年7月17日の艦砲射撃、同月19日の空襲と、3度の攻撃により壊滅的な被害を受けて、市街地が一面焼け野原となったが、戦後の「戦災都市復興計画」により、土地利用計画や土地区画整理事業、駅舎新設・駅前広場の整備、公園の新設などの計画とともに、街の骨格となる街路の計画が盛り込まれた。そして、今のけやき通りや市民会館通りなどとともに平和通りの計画が作られたのである。道路幅員36メートルは、自動車が一般に普及していなかった当時としては驚異的な規模のものであった。
 昭和26年12月、平和通りは全線間通した。「平和通り」の名前の由来については、市民から募集して、最も多いものを通りの名前に採用している。当時の日立市報によれば、応募総数1263件のうち「平和通り」が180件を占めて第一位となり、この名が付けられた。
 さて、平和通りに桜が最初に植えられたのは、昭和26年4月3日、時の友末洋治茨城県知事と高鳴秀吉日立市長が記念植樹したものである。この記念植樹は、「戦争で荒れ果てた国土を緑化し、また治山治水にも役立てよう」という「国土緑化運動」の一環として植えられたもので、あいにくの雨の中であったが、両氏が染井吉野の苗を植えている写真が記録として今も残っている。これを契機にして同年10月には地元の人たちの協力により、国道6号からけやき通りまで、約600メートル区間の両側に75本の染井吉野が植栽された。この植栽には観光目的もあったようである。
 染井吉野は、桜の中でも成育が早く、樹高も大きくなる品種である。樹齢10年くらいから枝振りも徐々に立派になり、数多くの花を付けることから全国各地の桜の名所に植えられている。平和通りの染井吉野も植栽から20年を経た昭和40年代半ばには花の名所となった。(目次へ戻る
桜の生長と桜並木の拡大
 昭和40年代後半から50年代前半は、国内経済の高度成長が終えんを迎え、それと相前後して大気汚染・水質汚濁などの公害問題や、交通事故による死亡者の急増などが社会問題としてクロしスアップされた時代である。このような社会情勢の中で、市内の主要幹線道路にも横断歩道橋が設置され始め、昭和46年8月に、平和通りとけやき通りの交差点(平和町交差点)に、「ロ」の字型の大きな歩道橋が設置されたのである。
 この歩道橋の設置に続き、商店会など地元有志の強い要望もあって、昭和51年には、日立駅とけやき通りの間、約330メートルにも染井吉野が植えられた。平和通りの開通当初は、潮風による塩害を配慮して、この区間には貝塚伊吹と青桐が植えられていたが、それらは田尻小学校と会瀬青少年の家に移植された。この区間の植栽により、当初からの桜と合わせ、日立駅から国道6号の常陽銀行前まで延長約900メートルの両側に介計115本の桜並本のトンネルが完成した。(目次へ戻る