大正4年(1915)3月、大煙突の使用開始により煙害の状況が一変すると、角は、ただちに自然環境を回復させるための植林を開始させた。
その春から、大煙突周辺から神峰山、本山方面へと大正8年(1919)春までに大島桜を中心とする植林を行い、その面積は360町歩に及んだ。大正9年(1920)からは、大白峰稜線から陰作沢方面の陰作国有林、金山方面の鹿子作国有林、大煙突東側の三作国有林などを対象として、大正13年(1924)までに杉、黒松、大島桜を植え付け、その面積は400余町歩に及んだ。なお、引き続いて手入れ、刈り払いを行い、昭和7年(1932)に一切を完了した。
それに先立つ明治の終りから大正6、7年にかけて、煙害関係で周辺集落の地主の要請により買収した山林(おおむね伐採跡地であったという)約450町歩についても、大正4、5年ころから杉、ひのき、黒松、赤松などの植林を行い、昭和6年(1931)ころ一切を終了した。
このおよそ18年間にわたる植林の面積は延1200町歩に達する。植えられた苗木の数は、概算で500万本以上である。また、この植林事業の中で、大島桜の植栽面積は、合計595町歩と報告されている。もし、仮に砂防植栽と同様に1町歩4300本の割で植えられたとすれば、その苗本の数は260万本に達することになる。
この植林が行われたころ、草木の枯れた山々では、山火事がたびたび発生した。このため日立鉱山は、大煙突を中心として旧日立市を巡る山々の稜線伝いに、50間または30間の幅に樹木を刈り払った防火線を延々と作った。ただし、防火樹として有効な野茶(ヒサカキ)、ヤシャブシなどは残したという。
今日、神峰公園から神峰、高鈴の両山を通り、南は風神山までのハイキングコースを歩くと、稜線洽いの方々において、このころ植えられて生き残ったどみられる大島桜やヤシャブシなどを観察することができる。(
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